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伝説の人・田中正造とは?名言とやったこと!足尾銅山事件は忘れてはならない!

   

出展:http://thinking-to-do.net

こんにちは!星読みタロットチャネラーのMagicalです!

愛称は「マッジ」ですよろしくお願いします!

話題のニュース人の本質星座占いとタロットを活用したチャネリングメッセージをお伝えしていく他ではないサイトです!

本日のチャネ人は伝説の政治家・田中正造さんです!もう没後100年以上経ておりますが・・今も語り継がれております。

最近何かと、政治家の不祥事が本当に多いですね・・・

浮気、秘書への暴行、政務活動費の横領などなど・・・連日報道されていますが、本当に国民のことを考えて思考し行動する、政治家は居るのでしょうか?

そんな時に・・マッジは、足尾銅山鉱毒事件の田中正造さんと思い出すのです。(この方は明治天皇に直訴するなどかなり行動的なんですが、恋愛も情熱的なんです!)

恐れ多くも・・彼の生き様を後世にもお伝えしたいので、やったこと・名言を現代風に分かりやすく

星座占い✖タロット✖チャネリングを勝手にをチャネプロファイリング致します~☆

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田中正造さんのwikiプロフをチャネる!

【名前】田中正造(たなか・しょうぞう)

【生年月日】1841(天保12)年11月3日

【没年月日】 1913年(大正2 年)9月4日)

【享年】71歳10ヶ月

【星座】さそり座

【タロットカード】吊るし人・正位置
【出身地】栃木県佐野市小中町こなかちょう(旧旗川村はたがわむら

【家族】

父親・旗本六角家の名主・富蔵(とみぞう)

母親・サキ

【結婚】大沢カツ・駆け落ち婚

【子供】なし?

田中正造の幼少期のエピソード!母親の教育が彼の人生を変えた

1841(天保12)年11月3日に栃木県佐野市にある農家にある一人の男の子が生まれました。

田中正造です!農家の長男として生まれました!

名主の家(旗本六角家)ではあったが、田中本人によれば村では中流でそれほど裕福な家ではなかったと言います。

田中正造は幼い頃から母親のサキに、彼が政治家になって社会活動するようになった根本的な考え方を植え付けられます。

5歳の頃に、家に雇われていた下僕に理不尽な怒りをぶつけてしまったそうです。

すると母親が飛んできて、「正造、お前、何様だよ。」と叱られて、真っ暗になった暗闇の戸外に、2時間も放置されたと言うのです。

母親は、弱い者いじめを絶対許さないという人だった

正造は、この時から、弱い者いじめはしてはいけない・・・と幼い心に刻んだと言うのです。

監禁誘拐事件?田中正造は情熱的な恋愛と駆け落ち!?

田中正造が23歳の時に、近所にいた大沢カツさんに恋をしたそうです!

ここまではよくあるお話なんですが・・カツさんはまだ15歳だったそうで8歳年下なんですね

現代で考えると・・ロリコン?とびっくりすると思われますが、100年以上前の頃は結婚も早かったのです。

しかしですね・・あまりにも好きすぎて、あるトンデモナイ行動を起こすのです!!

カツさんの両親も二人の結婚は許すはずもなかったので

正造はカツさんが裁縫の習い事から帰る途中、正造宅に半分強引に連れて来てしまうのです・・・汗

当時から駆け落ち婚は珍しいことだったようですが、現代よりも有り得ないご法度でした。

カツさんの実家では、いつまでも娘が帰ってこないので当然大騒ぎになりました!

カツの家族は、付き合っていた正造の家にもカツさんを探しにやってきたのですが・・・正造はカツさんを両親に返すことなく・・・

なんとカツを風呂桶の中に隠して、そのままカツは家に帰らせなかったのです。

ある意味この行動は・・・監禁・・・誘拐・・・そして駆け落ち・・・

こうだと決めたらなんとしても行動する正造の性格があらわれています。

もちろん・・・カツさんも正造を慕っていたから、従ったのだと思いますが・・15歳の娘さんには??

しかし二人の愛は正造に起きた事件や、社会活動を通して、確かめられることになります。

田中正造は無罪なのに生涯4回も逮捕された?

正造は父の跡を継いで小中村名主となり、幕末から村民らと領主である高家六角家に対して政治的要求を行っていたが、このことがもとで明治維新直前の慶応4年(1868年)に投獄されました。

なお、この時の牢は縦横高さともに1mほどしかない狭いもので、立つことも寝ることもできない過酷な構造だった。翌年に出所しております。

明治3年(1870年)、江刺県花輪支庁(現・秋田県鹿角市)の官吏になった正造でしたが不運を襲います・・・

翌年には、上司の木村新八郎が何者かに殺されたのですが、正造が殺害の容疑者として疑われ、とうとう逮捕され、投獄されているのです。

これは物的証拠もなく冤罪(えんざい)だったと思われるが、正造の生真面目な性格や、融通の利かない言動から、当時の上役たちに反感を持たれていたのが影響した言われています。

獄中は、まるで地獄だったようです・・・

正造が殺したという証拠は全く無いのだから、警察は自白を強要しました。

拷問に次ぐ拷問が毎日待っておりました。

冬の刑務所はとても寒く、同じ房の囚人が4人も凍死したほどの酷い環境でした。

通常の人であれば、自分がやったと自白して楽になろうとするかもしれませんが・・正造は3年も無実を訴えて続けておりました。

ようやく正造は無実が認められたのは34歳でした。

正造の無実を唯一人信じて待っていた女性が居ました・・

正造が誘拐・監禁した、カツさんでした。そして二人は結婚するのです。

4年後、正造は区会議員として、政治活動を始めました。

無実の罪で捕まって、間違った権力を振るう人達を自分の手で良くしようと志したのです。

そして、1890年、正造50歳の時、栃木3区から出馬した田中正造は、第1回衆議院議員にみごと当選したのでした。
議員になった僅か2ヶ月後の事です・・・

正造の運命を変え、日本の政治の世界の在り方を変えてしまう事件が起こるのです。

(この他にも2回ほど、正造は逮捕されています。明治17年、県会議員として県令三島通庸と闘った際、宇都宮、佐野警察署に七十九日間拘留された。
明治35年、国会議員辞職直後に、川俣事件公判における官吏侮辱罪で、巣鴨監獄に一ヶ月と十日間入獄しております。)

渡良瀬川の悲劇の歴史!消えた村・・壮絶な戦いを忘れてはならない!

栃木県の南西に位置する足利市の中央を「渡良瀬川」が流れております。

森高千里(45才)が1993 年に発表した名曲『渡良瀬橋』の歌詞に登場することでファンの間で広く知られていますよね!

森高さんが『渡良瀬橋』の作詞にあたっていた当時、きれいな響きの川や橋の名前を探していて、偶然目にとまったのが『渡良瀬川』だったそうです。

これも偶然なのですが、森高さんは以前にもライブで足利の地を訪れていたことがあったんです。彼女はその不思議な縁を感じたこともあって、曲の舞台に選んだのだそうですよ

歌詞の中に・・・

「願い事1つ叶うなら、あの頃に戻りたい。 私、ここを離れて暮らす事出来ない。」

まるで渡良瀬川の事件を知っているような詩ですね・・・もしかしたら森高さんの前世は?谷中村と繋がっていたなんてマッジは想像を膨らませてしまいました。

話を戻しますが・・渡良瀬川が流入する渡良瀬遊水地の一部には、湖底がコンクリート張りの人造湖があり、「谷中湖」と呼ばれています。

東京ドーム770個もある日本一大きなハートの形をした湖で、近年は観光スポットになっています。

出展:http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-46-

この湖には心霊スポットとしての渡良瀬遊水地としても有名のようです。

上流で災害や自殺、犯罪などの被害者が、最終的に、この渡良瀬遊水地に流れ着いた事から心霊スポットになっているからです。

そして・・・渡良瀬川には悲劇の歴史があります・・田中正造が命をかけて戦ったあの足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)または足尾銅山鉱毒事件(あしおどうざんこうどくじけん)です。

足尾鉱毒事件による鉱毒を沈殿させ無害化することを目的に渡良瀬川下流に作られた遊水池でもあるからです。

足尾鉱毒事件・足尾鉱毒事件と田中正造

19世紀後半の明治時代初期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた日本で初めてとなる足尾銅山での公害事件です。

銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起するものの、加害者決定されなかった歴史があります。

正造が議員になった僅か2ヶ月後に渡良瀬川に50年ぶりに大洪水が起きました。

流域各地で大氾濫を起こしたのです。

しかしそれはただの大氾濫ではありませんでした・・・川が氾濫した被害だけでは終わらなかったのです

渡良瀬川が反乱した後は、あちこちの池で魚が腹を上にして大量に死んでいるのが見受けられ、稲も育たなくなり、そのままの状態でたち枯れるような

死の世界になってしまったのです。

実はそれまでも、この渡良瀬川では鮎が大量に死ぬという出来事もあったようです。

その時は原因が分からなかったのですが・・恐ろしい事実が判明するのです。

渡良瀬川のずっと上流には「足尾銅山」があったのです。

この足尾銅山が巨悪の原因根源となっていたのです。

銅を精製する過程で出る銅イオンや亜硫酸鉄、硫酸が川を汚染し、鉱毒ガスである二酸化硫黄が酸性雨を降らせ、足尾銅山付近の山々は、禿山となっており・・・

結果的に、汚染された渡良瀬川が大洪水によって、池や田畑に流れ込んでしまったようです。

実は、足尾鉱山の周辺ではこの酸性雨によって、すでに松木村、久蔵村、仁田元村の3つもの村が、廃村となっていたのです。

足尾の山は、禿山になるだけではなく人間も住めない地になっていたのですが、全くこの頃は環境保護という考え方が無かったようです。

日本には公害病と日本初に認定された、岐阜県の三井金属鉱業神岡事業所(神岡鉱山)による鉱山の製錬に伴う未処理廃水により、神通川下流域の富山県で発生した公害で、日本初の公害病で四大公害病のひとつでもあるのですが・・・

この事件も1910年から1970年代にかけてなんと60年も続いたので・・・それだけ長い間政府から、無視されてきたことが驚きなんです。

歴史から消されていますが・・・マッジは足尾銅山が日本で初めての公害病だったのでは?と思います。

実際に・・・鉱山の毒を含んだ水が川を流れ、渡良瀬川流域に住む人は軒並み目が悪くなったようで、食べるものもなくなり、母親の乳が出なくなったり、目が見えない子が産まれたり、胎児や乳幼児の死者が通常の2倍以上にもなったと言います。

このような状況でも国は最期まで、足尾銅山の鉱毒問題として全く認めませんでした・・・理由とは?

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田中正造と川俣事件・・流血の惨事

たった1つの会社の横暴が、多くの住民の生活を苦しめているのはおかしい。正造をその事を国会(帝国議会)で取り上げ、足尾銅山の操業停止を訴えたのです。

当時の鉱業条例では、「農商務大臣は、採掘などの事業で害がある場合は、認可を取り消す事が出来る。」という法律があり、それに照らして足尾銅山の認可を取り消す様に正造は迫ったのである。

しかし、足尾銅山を開発していた古河鉱業は、正造よりも一枚も二枚も上手だったようで、古河鉱業の社長、古河市兵衛は、こういう事もあるだろうと・・・
当時の農商務大臣の息子と自分の娘を結婚させ、婚姻関係を結んでいたと言うから・・・本当に確信犯です。

正造の追及に対して、農商務大臣はのらりくらりとかわして、結局、そういう被害は認められるが、それが足尾銅山が原因とは認められないと退けたのです。

当時、日本の法律にも不備があり、原告に立証責任があったので、農民たちや専門家では無い、一人の政治家が、専門家である会社に対して、裁判で勝つ見込みなど皆無に等しかった言います。

そして、正造の敵である巨悪は1つの会社だけでは無く、この国だった事を知るのです・・・

何もしてくれない政府に怒った農民たち2500人が決起して、みんなで政府に陳情しようという事になり、栃木・群馬などの農民たちが、東京に向ったのですが

これが後に言う(1900年)「川俣事件」で流血の惨事となり、農民多数が逮捕された最悪な事件でした。

群馬県の川俣まで来た時、政府の命令で300人の警官隊が農民を待ち受けていたそうです。

そして、武器を持っていない無抵抗の農民を石やサーベルで殴る蹴るで退散させたのです・・・
それだけではなく、首謀者と思われる51人を捕まえ裁判にかけたと言います。

当時の総理大臣、山縣有朋は「ドン百姓の連中らを東京に入れるな!」と命令していて、警官や憲兵が利根川を超えさせるなと、川俣で農民たちを待ち伏せし弾圧を命令したそうです。

現代では考えられませんが・・・歴史的背景があるのです。

実は、当時足尾銅山は、国内において約50%の銅生産率で、国内第1位を誇っておりました。
政府は、この銅で銃の弾や大砲の弾丸を作ったり、この銅を売って武器を買い、アジア隣国へ侵攻し、イギリスやフランスの様に、領土拡大を画策していたのである。
実際、1894年の日清戦争では足尾銅山の銅が、武器製造に役に立っており、じきに始まりそうなロシアとの戦争(日露戦争1904年)にも備えようとしていたのだと考えられます。
だから、当時の政府にとっては一部の農民の苦しみよりも・・・武器になる銅を選んだのですが・・・

戦争とは人間の思考を狂わせます。

政府がやった事と言えば、足尾銅山を批判する意見を潰す、意見弾圧をしたのですから・・・。

田中正造の名言が凄い!亡国演説

川俣事件の惨劇を知った正造は怒り狂い・・農民を無視している政府の責任を激しく議会で追求したそうです。

そしてその時の演説は「亡国演説」と呼ばれて、日本憲法史上に残る大演説だったのです。

 「今、私達の日本は亡びようとしています。渡良瀬川沿岸の人々を殺す事は、国家を殺す事になり、法律をないがしろにする事は、国家をないがしろにする事です。」

 「これは自らこの国を滅ぼす事に他なりません。税金を無駄遣いし、民を殺し、法を破って、亡びない国など、いまだかつて聞いた事はありません。」

「戦争は犯罪である。世界の軍備を全廃するよう日本から進言すべきだ!陸海軍を全廃して軍事費を、人民の福祉に振り向けるべきである。」

「 皇居からわずか80キロ離れた関東の沃野を足尾の鉱毒で荒廃せしめ、幾十万の人民に塗炭の苦しみをさせながら、満州を占領したとて何になる。

 力をもって得たものは、必ず後日、力をもって奪い返されることは必定である。」

 

正造の亡国演説に対して、当時の総理大臣・山縣有朋は「質問の意味がわからない」として答弁を拒否したそうです。

それを聞いた正造は、当時与党に所属していたが、失望して、離党したのでした。

その後も正造は、足尾銅山の問題を新聞や世論に訴えたり、国会で度々意見して、足尾銅山の操業をやめさせろ!と明治政府に迫ったのですが

政府がやった事と言えば、足尾銅山を批判する意見を潰す、意見弾圧だけだったそうです。

田中正造の名言といえばこちらもかなり有名です。

下記の画像は田中正造の直筆?と思われるものです!田中正造記念館から画像からお借りしました。

出展:http://www.cnet-ga.ne.jp/syozou/

真の文明は

山を荒らさず

川を荒らさず

村も破らず

人を殺さざるべし

田中正造の明治天皇直訴によって奇跡が!妻との離縁

政府に失望した正造は、ついに最後の禁じ手を行なう決心をするのです・・・禁じ手、それは自分の命をかける行為だったのです。

田中正造は、自分が尊敬する「天皇に直訴(じきそ)」する事にしたのである。

しかし、当時、直訴をした者の最高刑は「死刑」であり、正造は真に、農民達の為に、命を賭けたのである。

直訴する際に田中正造は国会議員を辞職したのです。

そして死刑になる夫を持っていはいけないと・・愛する妻であるサキと離縁するのです。

1901年、10月23日・・・決死の覚悟で行った天皇への直訴だったが、
沿道で警備していた警官に取り押さえられ、あっけなく失敗に終わってしまう。

これで全て終わりだ・・と思っていた正造に奇跡が起こるのです。

天皇への直訴という行為が、マスコミに取り上げられたのだ。東京中が大騒ぎになり、号外も出たのである。
直訴状は天皇には届かなかったが、その内容は多くの人の目にとまったのだ。

しかも、本当にそんな酷い事が起きているのかと、その記事を見た多くの大学生達が、実際に足尾銅山に行ったり、渡良瀬川流域を調べ始めたりして、やがて多くの人が知る所になったのである。

政府があまりにもマスコミや民衆の反応に驚き・・本来であれば死刑にしたい正造を気が狂った男として釈放しました。

激しいマスコミや民衆の追求に対して、渡良瀬川周辺に大洪水に供えた貯水池を作るという案を出したのである。

政府の意見は、渡良瀬川周辺の農家の田畑が壊滅したのは、渡良瀬川が氾濫したからであり、貯水池さえ作れば洪水は起きなくなり問題解決としたのである。

つまり、政府は隠したかった足尾銅山の鉱毒問題を、巧みに渡良瀬川の氾濫による治水問題に置き換えたのです。

足尾銅山事件の政府の陰謀・・谷中村と正造を消す

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時の政府には、もう1つの狙いがあったのです。
足尾銅山の事を追及しているのは、田中正造を中心とした谷中村の農民だった。

だから、新しく作る貯水池を谷中村にすれば、谷中村がある場所にすれば、足尾銅山の反対らはバラバラになり、谷中村は、貯水池の中に消滅させる事が出来ると画策したのです!

生意気な正造も、谷中村も、栃木県の地図から消してやる!政府は、谷中村の土地を強制買収し始めました・・・

正造は自分の家を売り、谷中村に一緒に住み始め、住民たちと最後まで戦ったのです。
しかし、1904年。栃木県会は秘密会で谷中村買収を決議。貯水池にするための工事が始められました。

正造は農民たちの先頭に立って、土地の強制買収を不服とする裁判や、演説を行い、1913年8月。支援者への挨拶まわりや運動資金の援助をお願いしている最中に倒れるのです。

正造は自分が胃ガンに侵されていたのにもかかわらず、みんなの為に駆け回っていたのでした。
正造が倒れた時、なんと所持金は一銭も無かったと言います。

苦しんでいる農民の為に、自分の家も売り、議員も辞め、妻と別れ、貯金を使い果たしていたのです。

持っていたのは、信玄袋1つだけで、中には、聖書と日記と本数冊・・・そして、みすぼらしい石ころが3つだけだったと言います。

(後にその石を鑑定すると、それは渡良瀬川が綺麗だった頃によくあった石だったという)

一文無しの正造であったが、孤独死では無かったそうです。

当時、正造から離縁されていたカツは、姉の所に身を寄せていたのだが、正造倒れるという知らせを聞くと、すぐに駆け付けて、臨終まで献身的な看病をしたと言います。

その時に、カツは近親者にこう言ったという。「私は、今でも彼の妻です。」と。

田中正造さんの妻のカツさんは小説にもなっています。

一文無しで死んだ正造だったが、最後は妻の手厚い看護と、惣宗寺で行なわれた本葬には、なんと農民など数万人ともいわれる参列者で寺が溢れたと言います。

その後、正造の意志をくんだ勇士達や農民たちの粘り強いたたかいの末、古河鉱業に加害責任を認めさせ、古河鉱業は農民たちに15億5000万円を支払ったそうです。
渡良瀬川沿岸の人々が鉱毒に苦しめられ始めてから、100年の歳月経っていました・・・
正造が亡くなって45年後の事でした。

出展:占い師のがやひろしさん「占い師の一言ブログ」から記事をお借りしました。ありがとうございます

田中正造と雲龍寺・田中正造記念館

「日本の公害の原点」といわれる足尾銅山鉱毒事件で一躍その名を知られることとなった渡瀬村(現・館林市) 「雲龍寺」は田中正造と結びつきがとても強いお寺です。

マッジも実際にお参りしたことがあります。

明治29(1896)年10月、正造は「栃木群馬両県鉱毒事務所」を設け、その後、足尾銅山鉱業停止請願事務所として、栃木・群馬・埼玉・茨城の4県鉱毒被害民の闘争とうそう本部となったそうです。(ここが鉱毒被害町村のほぼ中央に位置していた理由からです。)

川俣事件のとき、鉱毒被害民はここに集結して請願のため上京し、利根川沿岸の川俣村で弾圧されたそうです。

本堂に上がる右手に鐘があり、この鐘を合図に続々と結集した農民たちが鉱毒悲歌を高唱こうしょうしながら、東京への大押出し(一大請願行進)を繰り出した場所でもあります。

この雲龍寺こそ正造がその半生をかけることになる戦いの始まり地でもあり、終わりの場所でもありました。

田中正造はこの寺で亡くなりました・・・正造の密葬が行われた寺で、境内には正造の分骨墓地もあります。

 

 

下記の写真が田中正造さんのお墓です。

 

救現堂はお墓の右横にありました。

このほか、本堂内には資料室があり、田中正造に関する資料が公開展示されております。

雲龍寺さんの御朱印も頂くことも出来ます。

田中正造記念館もこの他にも存在します。

群馬県館林市大手町にある、田中 正造を顕彰し、足尾鉱毒事件に関する資料を集めた記念館である。正式名は「足尾鉱毒 事件田中正造記念館」です。

是非足をお運びください。

NPO法人 足尾鉱毒事件田中正造記念館
〒374-0023 群馬県館林市大手町6-50
TEL:0276-75-8000 FAX:0276-75-8013

開館時間Am10:00~Pm4:00
火・木・土・日のみ開館
入場無料

出展:http://www.jalan.net/

田中正造さんの星座占いで性格チャネリング!

正造さんがさそり座というのが、妙にマッジは納得しました!

⇒【星座占い】さそり座さんの本質のまとめチャネる!

愛する仕事や人のために身を尽くして働く人、関心があるかないかで0か100かの関わり方をするとチャネる!

裏切りは断じて許さない、倍々返しをするとチャネる!

タロットチャネリングで田中正造さんの人物像と今後をチャネる!


田中正造さんは
吊るし人」正位置です!

⇒★タロットのカードの意味★「吊し人」

田中正造さんへのタロットチャネリングメッセージ

忍耐、努力の果てに報われる、困難を受け入れる、修行…

正造さんの壮絶な人生は・・日本の政治を変えました。

徹底的に政府に叩きのめされた正造さんを見て、政治家たちはますます派閥を強くしていったそうです。

一人で行動するのはあんなひどい目に合うと感じてしまったようです。

もう100年以上前のお話ですが・・・正直今の日本の政治は変わっているのでしょうか?

原発にしろ様々な問題をすり替えられているようにマッジは感じています。

田中正造さんが日本に6人居たら・・日本は変わるかもしれません。

タロットチャネラーMagicalの勝手にチャネリングニュースラボでした!
ここまでお読み頂きありがとうございます!

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