原節子はハーフ?晩年(現在)写真!マッカーサーと小津安二郎の愛人遍歴

出典:dmenu映画

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本日のチャネ人は伝説の女優、原節子さんです!

日本人離れした元祖ハーフ顔の美女で「永遠の処女」と現在でも呼ばれており、引退してから半世紀近く経ても『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の第1位になったこともあるようです!

戦前から戦後に駆け抜けた、歴史に残る日本映画の大女優ですが、結婚は生涯しませんでした。

原節子さんは引退してから一切マスコミに出ることがなかったので、未だに秘密のベールで隠されております。

交際相手の噂もあり、マッカーサーや小津安二郎との愛人だった?・・独身を貫いた昭和女優の真実と過去から現在(晩年)についても

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原節子さんはハーフ?wiki経歴プロフ!出川哲朗と親戚?

【名前】原節子(はら・せつこ)

映画デビュー作で演じた役名「節子」から芸名をとって「原節子」とされました。

【本名】会田昌江(あいだ・まさえ)

【愛称】「永遠の処女」「不滅の大スター」「和製グレダ・ガルボ」

【生年月日】1920年6月17日

【没年月日】2015年9月5日(満95歳没)

【星座】おとめ座

【タロットカード】女教皇 正位置

【出身地】神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町帷子(現在の横浜市保土ケ谷区月見台)

【小学校】保土ヶ谷尋常高等小学校

【高校】横浜市立高等女学校二年で中退

【家族】

父親・会田藤之助

母親・会田ナミ

7人兄弟・男2人、女5人

兄・会田吉男・カメラマン電車で轢(ひ)かれて急死している

次女・光代・映画監督・熊谷久虎と結婚

三女・106歳で亡くなる・2015年9月15日沒

四女・唯一ご存命で98歳・原節子に勝る美女と言われ付き人と務めていた・都内で暮らしている

【噂になった人】小津安二郎(おず・やすじろう)1903年12月12日

【活動期間】1935年~1963年

【事務所】  1935年4月15日・日活多摩川撮影所に入社(1937年に退社)⇒京都の映画会社J.O.スタヂオを経て東宝映画に所属⇒1947年にフリーになる

両親ともに日本人ですのでハーフと言うのは噂だと思われますが・・・日本人離れした顔立ちですので、今でもハーフ女優だと勘違いされるのは不思議ではありません。

原の実家の会田家は、代々日本橋で問屋を営み、外国人の血が入っているということはないそうです。

お笑い芸人の出川哲郎と遠い親戚にあたるそうなんです。

これにはびっくりですね・・似ても似つかないというのは大変失礼なお話ですが・・・

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原節子さんが女優になったキッカケ!最初は大根役者だった?

原節子さんは2男5女の末っ子で9人家族だったようです。

経済的に大変困窮していたのですが、7人兄弟の次女の結婚相手が映画監督・熊谷久虎でしたので、映画界入りを勧められたそうです。

原節子さんは映画界に入るために、女学校を二年で中退されております

教員を志望していたのを諦めたのです。

昔は今と違うのは・・生活のために芸能界入りをする人が多かったのです。

山口百恵さんもそうだったようですよ。

今ではどちらかと言うと・・・お金持ちのご子息が芸能界入りを希望するステイタスになっていますよね

そして無事に原節子さんは1935年日活多摩川撮影所に入社し、同年の日活映画『ためらふ勿れ若人よ』で映画デビューされています。

目鼻立ちが大きく、はっきりした顔立ちの、非常に現代的な美女で、当時の日本人の憧れでもありました。

しかし10代にデビューし、20代までは”大根女優”のレッテルを貼られていたそうです。

もともとは、決して演技がうまいほうではなかったようで、原さんご自身も、「大根役者とばかり言われている」という発言があったようです。

人前に出て演技することに抵抗があったそうです。

1949年の春、29歳の原さんに運命の作品が来るのです。

原節子さんの外見上の魅力ばかりの、ただ美しいだけの女優じゃないことを、証明した作品であり、それから原さんは女優として大飛躍をしました。

その作品は有名な映画作品『晩春』です。

小津安二郎監督との出会いが、彼女の運命を変えて国際的な大女優になったのです。

芸能界でも監督に魅力を見出された女優が恋愛関係になってしまうケースはよくありますよね

当時は肉体関係にならないにしても、お互いに惹かれ合っていたかもしれません

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原節子さんとマッカーサーとは愛人だった?

1937年、まだ16歳の新人女優だった原を一躍スターダムにのしあげた作品が日独合作映画『新しき土』でした。

アーノルド・ファンク監督によってヒロインに大抜擢された原が務めたのは、大和光子役。

留学から帰った婚約者の気持ちの変化に絶望する少女を初々しく演じた原は、世界公開のためドイツやフランス、アメリカなど世界を巡り、ヒトラーも絶賛したそうです!

ですから原節子さんは、10代にして国際的女優として名を知られておりました。

ですからマッカーサーは原さんのことを映画で既に知っていたようですね

1945年、マッカーサーがGHQ最高総司令官として来日されておりますが・・・当時、マッカーサーが原節子と愛人であると巷で噂もあったようです。

マッカーサーが65歳で原節子さんは25歳です・・40歳の年の差!

愛人として有名なのはフィリピン女優エリザベス・クーパーです。

この時彼女はまだ13歳だった言うから驚きです。

マッカーサーがフィリピン時代からの愛人で、のちにワシントンにお持ち帰りしたことが発覚して、愛人スキャンダルでマッカーサーのキャリアに傷が入ったと言われております。

それにマッカーサーはマザコンだったようで、前妻と離婚したのですが母親が怖くて紹介できなかったそうですよ!

ですから16歳になったクーバーを愛人として、隠れて囲っていたそうです。

年の差で付き合うのはマッカーサーは抵抗なさそうですよね。

原節子さんは本当に大丈夫だったのでしょうか?

実際は親密な関係はあった証拠はありません。

世界公開された映画『新しき土』を観ていたマッカーサーが、原節子さんのことを「チャーミングな女性だ」と言ったことが外国人記者の耳に入り、雑誌に書き立てられて伝わってしまったのが理由が濃厚だと思われます。

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小津安二郎監督は原節子が愛人だった?

原節子さんは生涯独身を貫いたことでも有名です。

戦前から女優として活躍し、その絶頂期といえる1963年に27年間の女優業を突然引退されております。

山口百恵さんもそうですが、旬の時期に引退するとずっと語り継がれるケースは多いですね。

6作品で原節子さんとタッグを組んだ小津安二郎監督の黄金時代の作品です!

  • 『晩春』:1949年
  • 『麦秋』:1951年
  • 『東京物語』:1953年
  • 『東京暮色』:1957年
  • 『秋日和』:1960年
  • 『小早川家の秋』:1961年

津監督により、原節子さんの艶っぽく、官能的な彼女の表情をカメラで写し取り、原さんの温厚な美しさと、クールな美しさを切り取っていったのです。

「原節子と小津さんの出会いは印象的だった。

原さんを見たとたん、ポーッと小津さんの頬が赤く染った。

『節ちゃんて美人だなあ』。小津さんはあとでそういった。

たしかにそのときの原さんは類いまれな美人だった。

この世にこんな美人がいるのか、と私は思ったほどだ」。

出典:旬愛 原節子と小津安二郎

「麦秋」撮影中に二人の結婚の噂も流れたこともあったようです。

1951年、原節子さんが31歳のときで小津監督は49歳でした。

18歳の年の差です。

小津安二郎と原節子さんのツーショット写真です。

出典:Naverまとめ

名作を次々に生み出すお2人には、常に恋仲の噂がつきまとったとも言われているようです。

小津監督は還暦の誕生日に亡くなるまで生涯独身でした。

甘いマスクでとにかくダンディーでモテモテだった小津安二郎監督だったようです。

映画の打ち上げの会で小津さんが原さんの隣に座った際、彼は声がまともに出せないくらい緊張していたそうです

原節子さんに一目惚れをしてしまった可能性もありますよね

小津安二郎監督の日記にも原節子さんに関する記述が残っています。

このところ 原節子との結婚の噂しきりなり(51年11月)

原に酔余(酔って)電話する(62年5月)

出典: 小津安二郎日記―無常とたわむれた巨匠

原節子さんは小津安二郎監督とは友人以上恋人未満の関係性で、愛人にはなっておりません

とても品位がある女性であることを、読みすすめて行くと分かると思います。

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原節子さんが結婚せずに独身を貫いた理由とは?

原節子は小津安二郎に捧げたから引退した

二人が両思いだったにせよ、叶うことはなく・・プラトニック・ラブだったようです。

北鎌倉で母親とずっとふたり暮らしをしていた上で、独身貴族を横臥しておりました。

ですから身の回りのことはほとんどすべて、母親にやってもらっていたので、結婚する気にもならなかったのかもしれません

そして小津安二郎監督には当時付き合っていた彼女もいたそうです。

馴染みの芸者さんがいたそうで、性処理の方も不自由はしていなかったとの話もあるくらいです。

小津安二郎監督は、かなり家族に対してシビアな表現をしている作品も多いので、結婚に幻想を抱いてなかったとも言われております。 

本当の意味でのプレイボーイだったのかもしれません、手を出していいい女性と明確に性を別けられる男性だったので女性を知っていたのだと感じます。

1963年12月に小津監督の通夜に訪れた原さんが玄関先で号泣したことは有名です。

それ以降忽然とマスコミから場から一切の姿を消し、マスコミの取材依頼も全て断っていたようです

1962年の映画『忠臣蔵』を最後に42歳で引退し、その後は一切公の場に姿を見せることがなく、文字通り小津安二郎亡き後、原節子を映画で見ることはできなくなったのです。

しかし、原節子さんが小津監督を、どれほどか思い続けていたに違いない証があると言われております。

小津監督が生前、愛した蓼科の別荘の敷地内に建てられた碑の台座に、原節子さんの本名が刻まれているのです。

作品的にも、精神的にも、原さんにとっての大きな支えであった小津安二郎さん・・・

原さんのその喪失感、空虚感、絶望感は、相当なものだと想像できます

その重要性からいっても、そのタイミングからいっても、小津安二郎の死が、原節子引退の引き金を引いたことはありますよね。

二人は何故一緒にならなかったのか・・

原節子さんはファーザー・コンプレックスだったかもしれません小津安二郎はマザー・コンプレックスであったかもしれません。

小津安二郎監督は、「きれいなものはきれいなままで保存しておきたい」と願い、「近くに寄って、嫌なものを見るよりは、近づかないで、美しいイメージのなかで思いこがれていた方がいい」という考え方だったようです。

ですから原節子を自分のアミューズにして手を出さなかったのかもしれません。

原節子さんは「自分は消極的で、生まれつき欲が少ない人間だ」と語っております。

ですから好きな人ができても、行動しなかったのです。

彼女や監督の性格を考えると、今の芸能人ように自由恋愛で、肉体関係になりにくいと思うのです。

お互いに想い合うこと・・大監督と大女優の関係性を崩さなかった。

一歩踏み込んだ結婚という絆で結ばれるよりは、お互い、付かず離れずの距離感をとって、尊敬し合っていた方がいいという道を選択したのではないだろうか

「二人の関係を『忍ぶ恋』ととらえれば、原節子のある種の覚悟が理解できる。・・・

原節子は小津が亡くなった時点で、小津への愛を貫徹する遺志を固めたのではないだろうか。

その原節子の遺志は、引退という形をとった。

映画にも出ず、世間にも姿を見せず、まるで隔離された場所でひっそりと生活する尼僧のように・・・。

その意味で、原節子の小津への愛は、『純愛』というより、『殉愛』だったということができよう。

・・・もちろん、小津の原節子に対する愛情も『殉愛』だったといえる。独身を貫き、可能だったにもかかわらず、他の女性と結婚することは生涯なかった」。

本書には、原、小津の他に、もう一人、殉愛を貫いた人物が登場する。それは、生涯、独身を通し、原を愛し続け、彼女を陰になり日向になりしてサポートし続けた、東宝の実力プロデューサー・藤本真澄である。

出典:http://enokidoblog.net/jounetsu/2017/07/23351 榎戸誠の情熱的読書のすすめ

原節子さんと小津安二郎をの愛を描いた、本がありますのでぜひ読まれると深く伝わってくるものがあります。

原節子さんは本当に品格のある女性だったのだと感じます。

男性は本命には簡単に手を出さないとも聞いたことがあるので、相手を本気にさせてしまう魅力があったのでしょう。

何故か夏目雅子さんのことを思い出しました。

彼女も伊集院光に見出されましたが、23歳くらいから不倫関係、三角関係を続けていたのです。

伊集院光さんもかなりのプレイボーイでした・・

それだけ女性にとって自分の魅力を放出してくれる相手は、忘れられない大切な人になるだろうし、才能を開花させた監督も生涯忘れられない自分の娘にような、手放せない相手になるのかもしれません

夏目雅子の死因と略奪愛!夫の伊集院静とは不倫関係?桃井かおりと4角関係で泥沼だった真相をチャネる!

原節子の実兄の事故から引退

撮影中にカメラマンの実兄の会田吉男を、眼前の列車事故で亡くされ、大変なショックのあまり引退したとの理由も噂されております。神格化された女優ですからいろんな噂があります。

白内障がすすんだから引退

東宝の看板女優として、また独立した際にも精力的に活動し、女優生活28年間で108本の映画に出演されており、驚きです。

引退を覚悟するのにはそれなりの大きな理由があるはずです。

白内障がすすんだからという理由だけでは説明できないでしょう。

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原節子さんの晩年の写真とは?

原節子さんは50年以上に及ぶ長い隠遁生活を経て、2015年に95歳で亡くなっております。

戦後すでに71年でした。

引退後はずっと映画界やファンとの交流も一切断ち、神奈川・鎌倉の自宅で静かに暮らしていたので

秘密が多いのです。

⇒原節子さんの晩年を過ごした鎌倉の自宅の写真

「もともと目立つことが好きではなく、女優もずっと続けようと思ってはいなかったようです。

白内障にかかり、撮影のライトを浴びるのも苦痛だったのでしょう。自分の出演作やインタビュー記事も持っていなかったし、女優時代の話も一切しなかった。写真も少し前に、全部自分で破って捨てていた」

出典:https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/477237/

ですから晩年の写真はありませんが、どうにか写真撮影をしようとして成功したカメラマンは居ましたが・・フィルムを原さんに返しているようです。

原さんの晩年の写真・週刊平凡

1970年6月の原節子さんが引退してから10年くらい経た時、「週刊平凡」に本人インタビューが難しいと悟ったマスコミは以来、折にふれて原節子さんのお姿を隠し撮りをしたのでしょう。

近隣の聞き込みから今の生活を描く記事もあったそうです。

これには原さんも神経質になっていたようで、近所の住民によると・・・

「近くにある薬局の店員が、雑誌に原さんの近況をしゃべった。

すると原さんはその店に行くのを止め、前を通る時もサングラスをし、手で顔を隠して通るようになったんです。

バスに乗る時も、わざわざひとつ先のバス停で乗る。

そこまで警戒は徹底していました」

出典:デイリー新調

50歳になった原さんですが、顔を隠してもとても顔立ちが美しいので、バレてしまうと周囲の人が話されていたと言います。

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原さんの晩年の写真・隠し撮りをされていた!

1989年の昭和の終わりの秋、69歳になった原節子さんの写真を撮影したジャーナリストがいます。

この時の原さんとのやり取りです。

「初めて伺ったのは、88年の初夏。この時は接触できず、繰り返し訪れるうち、秋になって初めて庭の手入れをしていた原さんを目撃したんです。が、動転してしまったのでしょうか、私は無施錠の木戸を開けて庭に入り、“會田さん!”と大声で呼びかけながら、無意識のうちに持参した小型カメラのシャッターを切ってしまいました」

 これでは不審者と思われても仕方ないが、原は近づく斎藤氏を「ダメですよ。どちらの雑誌社ですか?」「私はどなたにもお話しする気持ちはありません」とたしなめ、すっと手を差し出してフィルムを返すように促したのだという。

「私は魔法にかかったように“すみません”と謝ってフィルムを渡しました。すると原さんは“ありがとう。どうかお引き取りください”と言って家の中に入っていった。メークはしてなかったと思いますが、やはり大変な美人でした」

出典:デイリー新調

この経験が忘れられなかった斎藤氏は、その後も鎌倉訪問を繰り返えされたようです。

1年後、再び原を目撃した際、フィルムを返してくれたお礼だと言って、カレーライスを庭先でごちそうになったのです。

「思いもよりませんでしたが、“はい!”と言うと、原さんは私を縁側に座らせ、10分ほど後、カレーとコップを持ってきた。ジャガイモやニンジンのたくさん入った手作りのものでしたが、私には少し辛く感じました。

食べている間、原さんは籐椅子に腰かけて庭をじっと眺めている。

私は食べ終わってから質問をしようとあれこれ考えていましたが、それを察したのか、食事が終わると、“この前のお礼ですの。お味はいかがですか?”“これでお引き取りください”と部屋に入っていってしまったのです」

出典:デイリー新調

たった20分ほどの面談だったそうですがその後、25年間通い続けましたが、原さんにお会いすることは出来なかったようです。

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原節子さんの引退後、晩年の自宅の生活と死因とは?

最後は自宅で原さんの身の回りの世話をしていた甥(熊谷さん)と一緒に暮らして居ました。

80歳過ぎてからは基本的に外出はせず、車でお寺に行ったり、月に何回か外に出るくらいでだったそうです。

「本や新聞を読んだりテレビを見たり、普通の老後でした。

本人は『あと5年は生きたい』と言っていました。

経済に興味があって、新聞広告で読みたい新書を見つけると『買ってきて』と頼まれてました。

異常気象にも気をもんでいて『もっと住みづらくなってしまう』と心配していました」

出典:https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/477237/

女優仲間の司葉子さんは、原さんを「ほんとに素敵なお姉さま」と姉のように慕っており、時々文通や電話をするなど、交流を続けていたそうです。

2015年の10月末に発売された週刊誌では「9月中旬ぐらい」に原さんが入院し、時々見舞っているとの説明がありましたが、8月中旬には神奈川県内の病院に入院していたそうです、9月5日には息を引き取っていたそうです。

世間に一切出ないと決めた原節子さんを配慮して、ご家族は守ったようですね

死因は「肺炎」だったそうです。

原節子さんの最期は簡素な家族葬

2ヶ月半に渡って周囲には知らされることはありませんでした。

通夜は10月6日、葬儀は7日に、神奈川県逗子市にある斎場で営まれたそうです。

出席したのは、喪主である甥の熊谷さんとその妻、そして長兄の息子など、わずか親族4人だったそうです。

事前に遺族側が斎場と打ち合わせをし、故人の身元を明かした上で“一切外に漏れないようにしたい”と、強く希望したのです。

このため斎場には『會田家』『會田昌江』といった案内板も掲げられず、ごく小さな部屋を借りて執り行われたそうです。

地元ではなく都内の下町にある會田家の菩提寺から住職が駆け付けたといいます

祭壇には、参列者が供えた花が4本立てられていただけで、あとは位牌のみという簡素なものだったそうです。

遺影については、映画の撮影時、40歳前後の頃に撮られたと思われる和装のモノクロ写真を遺族が用意していたようなのですが、結局2日間を通じて、その写真が祭壇に飾られることなかったそうです。

斎場の職員でさえもシャットアウトした経緯は

『亡くなった時の顔は見せないでほしい』

という故人の遺志があったとのことです。

最期まで女優魂があったのかもしれません

出典:死因についてデイリー新調の記事を使わせていただきました。

因みに原節子さんの三姉は節子さんが亡くなった5日後の9月10日に106歳で亡くなっております。

四女も90代を超えてもご存命でしたので、ご長寿の家系のようですね。

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原節子さん星座占いで性格チャネリング!

原節子さんはおとめ座です!

【星座占い】おとめ座さんの本質のまとめチャネる!

まじめ、控え目、神経質できちんとしていて器用です。

物事をなかなか決められないところがあるようです。

周りをいつもフォローする側のおとめ座さんですが、実はかまってもらいたい願望がある寂しがりやのところがあるとチャネる!

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原節子さんは 「女教皇」正位置です!

タロットカード◆大アルカナ

正位置:ミステリアス、秘密、知性、冷静、二面性…

原節子さんへのタロットチャネリングメッセージ

原節子さんの人生をみていると、本物の日本人女性らしさがあり、外見の派手さとは違い、とても恥ずかしがり屋でがんばりやさん・・・とても素直な人だったのではないでしょうか?

少女のように純粋なところもあり、生真面目な性格だったので小津安二郎監督との関係性も一歩踏み出すこともなく・・

生涯独身を守り、愛を貫いた人でもあると感じます。

男性が初恋の人に振られて生涯独身で過ごす方もいらっしゃるようです。

女性は切り替えて相手を変える人が多いのですが、原さんは潔癖症なところもありました。

現在の女優さんたちは私生活も丸出しが多く、昔の女優さんとは全く立ち位置が違うかもしれません。

私生活もビジネスになるからやっている人も多いのですが・・

SNSの普及により、ファンとより近くなったという点はありますが、価値を安売りして秘密も何もない状態です。

秘めるからこそ花になる。秘めねば花の価値は失せてしまう・・

能を大家・世阿弥が著した芸論書「風姿花伝」でも有名な一説ですが、原節子という大女優である芸術的な生き方を体現して、最期まで秘密を守った真の強い女性が原節子さんであると感じます。

タロットチャネラーMagicalの勝手にチャネリングニュースラボでした! ここまでお読み頂きありがとうございます!  

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